必死で生きる

福祉委員のとき、近所の独居老人を見守っていた。

アパートの階段は傾斜が急で、手すりも古い。

87歳の老女が、手すりを両手でつかみながら、

やっとのことで2階まで登る。

 

このアパート、老女がもう一人。

肺がん末期で、一人暮らし。

買物が大変。

スーパーが近く、何とかやっている。

 

しかし、長くはないだろう。

いつ倒れるのかと、

私は気になる。

見守りだが、死を待っているよう。

 

母の介護のときも同様だった。

悪くなって長い、いつ倒れるかと、毎日心配。

一日に数回、母の部屋を見舞う。

 

今日は死んでいるのではないかと、

そっと部屋の様子を窺う。

母は私の気配を感知、

「まだ生きちょる」。

 

親父は、元旦2日。

朝4時半におむつ交換に行くと、

死んでいた。

病院から追い出されて2週間後。

水分もとれなくなっていた。

前日夕方、明るい顔で手を振っていた。

享年94歳。

 

友人Aの場合。

前日から連絡がとれなくなり、

昼過ぎにアパートで、

私が第一発見者。

死後硬直がすすむ。

すぐ警察に電話。

数年前から死を予期していた。

 

病院の職員は、入院患者の容態を知っている。

悪くなり、最期が見え始めると、

いつ死ぬかと、気にかける。

 

人の死を待つ、気持ちは気楽。

自分のことではない。

他人の苦しみは、わずかしか分からない。

溺れる人を舟の上から眺めるような感じだろうか。

自分の子なら絶望となるが。

 

公園を散歩する。

当人にとって歩くのは必死。

だが、はたからは、元気なお年寄りに見えるだろう。

 

老人はそれぞれ、必死で生きている。

親しい人でも、分からない。

食事中に噛み続けるのも大苦労。

そうして、やっと、一日が終わる。

眠りについて、これで、明日の目覚めがなければ、

最高かもしれない。

 

老人は、することがあるのが肝心と言う人がいる。

何もなくてもいいと私は思う。

一日を生きるのが、大事業。

 

緊張の中で、ほっと一息できたら、最高だろう。

これ以上の冒険はないと思う。

人生の最期は、

マゼランの大航海。

故郷への帰還はありえない。

 

 

ワンマンたちの天国

今朝一番の読み物は、下記

 

平成の金融危機で大手銀行が破綻した理由

https://diamond.jp/articles/-/200630

 

バブル崩壊で、地価が極端に低下、不良債権が巨大に。

しかし、銀行も政府も、この地価低下は一時的と評価した。

何もしないでも、やがて、もと戻る。

地価が下がることはありえない。

明治以来、上がり続けている。

 

銀行も政府も、問題の先送り。

やがて、収益は回復するだろうと。

 

しかし、地価は戻らなかった。

バブル崩壊から約30年。

半分まで戻ってはいるが、

これは、1070年代の地価。

 

破綻した大手銀行に共通した経営のあり方があるという。

ワンマン経営。

内部でアイデアや情報の自由さがない。

ワンマンは現実を知らない。

 

知らない人が、知った顔をして威張っている。

これは、日本中、どこでも見られる現象。

 

組織のあり方が、今、注目されるゆえんがある。

これからの時代を考える

72歳も過ぎ、体力低下のなかで、

毎日、死を意識する生き方となった。

 

この世の楽しみは充分に味わった。

さらに、何を望むのかと、贅沢を叱られそうな感じもする。

 

やり残してきたことも、いっぱいあるが。

お金がない世の中をつくる、という夢の実現は、

まだ100年はかかりそう。

 

散歩や買い物以外の外出は、ほぼなくなった。

旅行も年に数回程度。

新しい人と知り合うチャンスは欲しいけど、

人付き合いが面倒になっている。

 

本やネットで、世界の動きはだいたい分かる。

日本経済が心配だけど、

アメリカや中国も同様だから、心配してもどうしようもない。

 

次の金融危機がいつやってくるのか、

世界が協調しなくては、乗り越えられないだろう。

協調できれば、未来が開ける。

 

今後30年間で、生産年齢人口は、

日本で3000万人減少。

中国は3憶人減るという。

すざましい変化。

 

人工知能とロボット化の進歩で、ライフスタイルも大変化だろう。

週20時間労働が実現するなら、大歓迎。

 

社会インフラで、ハコモノはほぼ不要になるだろう。

高速道路のようなものも、必要性は減るだろう。

当市のような田舎は、

文化でまちづくりしないと、未来はないと思うのだが。

 

つづく

 

 

未来の社会

この日曜は、当地の市長選挙

地方自治の未来について考えた。

 

人として生きることは、得難い贈りもの。

人生は、何よりも、楽しむためにある。

高々100年の短いイノチを味わうことにある。

 

地域社会の理想を言えば、

楽しむには、まず、食べる楽しみ。

美味しい料理と、おいしい食材。

調理と農業の職人たちが必要だ。

いずれも、人手で沢山かかっている方が、工夫も安心もできる。

ロボットによる作業では、本当の満足は得られない。

 

次の、楽しみは、文化。

演劇、音楽、美術などの芸術のこと。

多様な分野と広がりがある。

人それぞれに関心や得意は違う。

いずれも、人手をたっぷりかける仕事。

自分も楽しみ、かつ、人にも楽しんでもらう。

有名になるのが、目的ではない、おろしろいと楽しめばいい。

 

よい作品は、世界から人を呼べるだろう。

 

次に、楽しむには、家など生活インフラのものづくり。

花壇や公園や街路樹など住環境整備。

これも、画一的な街ではおもしろくない。

人手がたくさん関わってこそ、魅力的まちづくりができる。

ここにも、多くの職人が必要。

それぞれに、個性や変化や冒険を楽しめばいい。

 

最後に、最も重要なのが、子育てと教育。

一生を通じて、学ぶのが、人の特性。

学びこそ、人生最大の楽しみ。

多様な分野で、その人だけの研究ができる。

資本やお金をかけないことが学びの特徴。

昔のこと、未来のこと、研究分野は無数にある。

其々に塾のような研究室が生まれるだろう。

 

生まれてくる子どもたちは、地域社会が育てる。

学校は、地域にある無数の塾が行う。

子どもたちは、好みに応じて、塾に行けばいい。

小学校の段階で、相対論を学ぶ生徒もある。

小学校で立派な芸術家となる子どももいる。

 

学校という施設はない。

勿論、教師もいない。

子どもたちは、幼児から自治に習熟するから、

自分たちの集団で、だいたいのことが決められる。

大人は補助するだけ。

 

地域社会で、お金や資本というものは、重要ではない。

そんなものは、なくてもやっていける。

工場などの自動化したモノづくりは、地域社会には不要。

モノを作って宣伝して売るという無駄なことはしない。

 

おろしろくて良いモノが生まれたら、

世界中から人がやってくる。

 

市役所と云っても、職員はいない。

ボランティアが仕事をしている。

福祉や医療や教育は市の仕事だけど、

ほとんどは、ボランティアが行う。

文化的な楽しみの合間に、手伝いにいく。

 

地域社会で、だいたいのものは、自給自足できる。

農業、漁業、林業や木工や建築など。

遠方や外国との取引には、通貨が必要になる。

その分の通貨は、観光客が落としてくれる。

 

文化も教育も優れた、とても魅力的なまちだから、

多くの人が訪れる。

移住してくる人も多い。

子育てには最高の場所。

子どもたちは、最高の自由と選択があり、

大人から指導されることはない。

経験と知恵に豊富な大人たちによる刺激に満ちている。

 

ここで育つ、ほとんどの子どもは

職人や研究者やアーティストになるだろう。

 

 

ゆとりのない社会

今の社会、人々の他人に対する寛容さ、

他人の欠点を受け止める包容力が

減っているのだろうか。

 

「できないこと」が致命的なデメリットになるような

冷たい社会に変わりつつあるのだろうか。

 

72年、この社会に生きてきて、

人々のあたたかさや冷たさが、そんなに変化しているとは

思わない。

 

確かに、今の時代、会社に就職しても、

先輩からゆとりをもって丁寧に指導されることは少なくなったようだ。

新入社員も即戦力として期待される。

昔のように、長期間をかけて社内教育で新人を育てるというゆとりがなくなっている。

 

上司や先輩から求められて、「できない」と言うことが難しくなりつつある。

「できない」は「やりたくない」に変わり、「それならやめる」となるのか。

 

例えば、障害を例にあげると、

昔は、障害があるから、当然「できない」が普通だった。

 

最近では、障害の範囲が広がり、

障害があっても働けるという時代になっている。

障害と健常との境目がとてもあいまいになった。

吃音などが典型。

 

軽度の吃音でも、生きづらいさは大きい場合が多い。

障害の程度と、生きづらさは、相関していない。

だから、余計に周囲にとって分からない。

合理的配慮が難しくなる。

 

社会からゆとりがなくなったのだろうか。

金銭的には、そうとうに豊かになっているにもかかわらず。

 

先日、コメントいただいた文章に、

今、最低賃金で働いても、月に14万円程度ある。

国民年金など引かれても、月に12万円。

部屋代が安ければ、何とか生活できる、とあった。

 

私は若い頃、フリーターで転職歴いっぱいだが、

最低賃金で働いたことはない。

その頃、最低賃金は常識外の世界だった。

生活保護に近いレベル。

バイトでも働ける人は、もっと稼ぐことができた。

今、最低賃金が普通になっている。

 

ゆとりの無さは、経済だけではく、

政治や学校にもあらわれている。

 

学校は、昔と比べて、特に変化がはげしい。

昔の教師は、のんびりしていた。

小学校の校庭で、大勢が見ている中で、生徒同士が殺し合っても、

大した事件にならない。(私の出身校の実話)

教師も責任を問われることもない。

いじめや暴力があっても、問題にならなかった。

陰で、一部の人たちにしわ寄せがあったのかもしれないが。

 

政治の世界も、のんびりしていた。

失言など、問題にならない。

裏でどんなことやっていても、そんなもの、という時代。

 

地域のボスが健在で、政治は動かない世界。

市長ともなれば、何もしなくても、多選が普通。

国からの財政補助が手厚くて、使い道に困るくらい。

 

今の地方政府、財政的なゆとりはない。

国からの支援は減るばかり。

しかし、国からの口出しは、昔の数倍も細かい。

一生懸命に独自性を出そうとしても、国は評価しないだろう。

地方政府の自立性は、幼稚園レベルまで低下している。

 

確かに、ゆとりのない時代になった。

 

人事管理について

高度成長からバブル崩壊まで、

日本社会のあらゆる場で、目標管理など不要だった。

目標までの道のりは、はっきりしていた。

先進諸国に追いつき、追い越す。

 

前例尊重、同じことをしていればいい。

経営者も管理職も、チャレンジは不要。

むしろ、反逆は村八分にされる。

 

東芝やシャープなどの失敗例を見ていると、

日本企業のほとんどは、管理部門が欠陥だらけではないかと感じる。

経団連の元副会長、伊藤忠商事会長の丹羽氏は本の中で、

日本の経営者の大部分が無能だと言っている。

 

日本の会社や行政組織では、

人事評価に大きな問題がある。

イデアや行動力がある個性的人材を、評価しない組織風土。

戦前の軍隊がそうであったように、

情実人事が基本の組織。

これでは、優れた人が上に立つのは難しい。

 

最近まで、全ての会社や組織は、

私情を交えた人事管理が普通であったようだ。

(先日は医学部入試での不正が話題に)。

 

1990年代に、日本の大企業は研究部門を縮小した。

日本企業は、イノベーションを諦めたようだ。

実例として、半導体がある。

日本は撤退したが、アメリカは半導体も第一線にある。

 

さすがに、情実人事を続けていたのでは、変化の時代を乗り越えられないと

人事評価のあり方が、近年少し変化しているようだ。

 

上司の主観的な判断で評価するのを改め、

目標管理や、定期的1対1のミーティング、

そして、記録を残すという、

公平性や透明性にも配慮している。

また、1対1の話し合いで、アクティブリスニングという手法も取り入れている。

 

一人の上司が部下を把握できるのは、10名くらいと言われている。

部下の個性や仕事内容が詳細に分かるのは、それくらいだろう。

これは学校でも同様だが。

 

部下の多様な個性に対応するには、

上司の人としての総合的な人間性が必要になる。

しかし、現実、適任者は稀だろう。

 

今の時代、大きく変わりつつある。

モノからソフトへ、

所有からレンタルへ、

幸せの価値観も変化している。

経済指標も変化の兆し。

 

組織が目標に向かって動くとき、

目標までの道のりが明確である課題は少ない。

途中で隘路に遭遇し、その都度、柔軟な変化が必要になる。

リーダーの先を見る能力も限られている。

むしろ、部下の方が優れている場合もある。

 

ピラミッド型の組織、上意下達の命令系では、

部下に教わっていたのでは上司のプライドが保てない。

前例尊重では、沈没するまで航海を続けるしかない。

賢い部下たちは、途中から真面目に仕事をしなくなるだろう。

 

先日のブログでチームのあり方について書いている。

https://ameblo.jp/ringokoringo2/entry-12367732563.html

 

チーム内の人事評価は、

同じチームに属する人たち同士で、互いに有効に支援し合えるかどうか、

それが重要ポイントになる。

 

お互いに、得意なところで助けあい、

チーム全体として目標達成を成し遂げられる、

対等な個人としても協力関係を作れるかどうか、それが重要になる。

上司は、チーム全員の個性にあった支援を行いながら、全体を俯瞰する。

 

個々人の知性を伸ばすだけでなく、集団として知性が伸ばせるかどうか、

そこにポイントがある。

 

ピラミッド型組織では、

上司とウマが合う人が20%。この人たちが評価される。

60%は、面従腹背

20%は、上司に嫌われる人たち。

 

これでは優秀な人材が出世するのは、まず不可能。

会社が危機に瀕しても、管理職たちは無能となる。

 

民主主義は、庶民のひとり一人を活かす仕組み。

どんな個性であれ、どこかに役立つもの。

変わった個性に対応するには、同じような変人でしかできないだろう。

変人が自由に動ける組織でなくては、

各人の個性発揮は難しいだろう。

 

(民主主義のバージョンアップを、その6)

 

つづく

教育の目的 選挙

民主主義の制度で、肝要なのは、選挙。

集団の中で、リーダーを選ぶ仕組み。

 

問題や課題の解決は、

役割分担して、組織的に対応しないと、

効果的に解決できない。

それには、

全体を俯瞰できるリーダーが必要となる。

 

人を選ぶには、

前提となる条件がいくつかある。

 

一つ、人を見る能力が養われていること。

 

これには、幼い頃から、集団で問題解決する経験を重ねて、

リーダーにふさわしい人を判断できる能力の育成が必要。

 

ある年齢(18歳)になって、突然、選挙権を与えられても、

人は使い方が分からない。当然のこと。

 

小学校の低学年から、集団の自治に習熟することが絶対条件。

中学や高校ともなれば、学校内の全ての行事(カリキュラムなど)の

自主的な自治が完成できるようになることが必要。

教師や大人の役割は、補助や助言という脇役。

 

一つ、リーダーの交代を円滑にする。

役に不適な人を選んだ場合は、速やかに交代する習慣をつくること。

リコールなどの制度のこと。

 

年齢や地位などの外部要因ではなく、

人を、信頼できるかどうか、尊敬できるかどうか、

素直に従うことができるかどうか、などの人柄で見るという習慣や態度が大切。

この態度を養うことが、教育の最大の目的。

一言で云えば、民主主義社会の主権者をつくる教育。

 

そういう見方を学生時代に身につけることができれば、

成人して、多様な人と共に働いたり、協働作業をするようになり、

グループやチームで対等な立場で協力しあうことが、できるようになる。

 

上から命じられてする、というような

奴隷のような考え方、感じ方は、

社会の中から消えていくだろう。

 

そうなって初めて、

選挙制度も民主主義も、うまくいくようになる。

 

(民主主義のバージョンアップを、その5)

 

つづく