ゆとりのない社会

今の社会、人々の他人に対する寛容さ、

他人の欠点を受け止める包容力が

減っているのだろうか。

 

「できないこと」が致命的なデメリットになるような

冷たい社会に変わりつつあるのだろうか。

 

72年、この社会に生きてきて、

人々のあたたかさや冷たさが、そんなに変化しているとは

思わない。

 

確かに、今の時代、会社に就職しても、

先輩からゆとりをもって丁寧に指導されることは少なくなったようだ。

新入社員も即戦力として期待される。

昔のように、長期間をかけて社内教育で新人を育てるというゆとりがなくなっている。

 

上司や先輩から求められて、「できない」と言うことが難しくなりつつある。

「できない」は「やりたくない」に変わり、「それならやめる」となるのか。

 

例えば、障害を例にあげると、

昔は、障害があるから、当然「できない」が普通だった。

 

最近では、障害の範囲が広がり、

障害があっても働けるという時代になっている。

障害と健常との境目がとてもあいまいになった。

吃音などが典型。

 

軽度の吃音でも、生きづらいさは大きい場合が多い。

障害の程度と、生きづらさは、相関していない。

だから、余計に周囲にとって分からない。

合理的配慮が難しくなる。

 

社会からゆとりがなくなったのだろうか。

金銭的には、そうとうに豊かになっているにもかかわらず。

 

先日、コメントいただいた文章に、

今、最低賃金で働いても、月に14万円程度ある。

国民年金など引かれても、月に12万円。

部屋代が安ければ、何とか生活できる、とあった。

 

私は若い頃、フリーターで転職歴いっぱいだが、

最低賃金で働いたことはない。

その頃、最低賃金は常識外の世界だった。

生活保護に近いレベル。

バイトでも働ける人は、もっと稼ぐことができた。

今、最低賃金が普通になっている。

 

ゆとりの無さは、経済だけではく、

政治や学校にもあらわれている。

 

学校は、昔と比べて、特に変化がはげしい。

昔の教師は、のんびりしていた。

小学校の校庭で、大勢が見ている中で、生徒同士が殺し合っても、

大した事件にならない。(私の出身校の実話)

教師も責任を問われることもない。

いじめや暴力があっても、問題にならなかった。

陰で、一部の人たちにしわ寄せがあったのかもしれないが。

 

政治の世界も、のんびりしていた。

失言など、問題にならない。

裏でどんなことやっていても、そんなもの、という時代。

 

地域のボスが健在で、政治は動かない世界。

市長ともなれば、何もしなくても、多選が普通。

国からの財政補助が手厚くて、使い道に困るくらい。

 

今の地方政府、財政的なゆとりはない。

国からの支援は減るばかり。

しかし、国からの口出しは、昔の数倍も細かい。

一生懸命に独自性を出そうとしても、国は評価しないだろう。

地方政府の自立性は、幼稚園レベルまで低下している。

 

確かに、ゆとりのない時代になった。