未来の社会

この日曜は、当地の市長選挙

地方自治の未来について考えた。

 

人として生きることは、得難い贈りもの。

人生は、何よりも、楽しむためにある。

高々100年の短いイノチを味わうことにある。

 

地域社会の理想を言えば、

楽しむには、まず、食べる楽しみ。

美味しい料理と、おいしい食材。

調理と農業の職人たちが必要だ。

いずれも、人手で沢山かかっている方が、工夫も安心もできる。

ロボットによる作業では、本当の満足は得られない。

 

次の、楽しみは、文化。

演劇、音楽、美術などの芸術のこと。

多様な分野と広がりがある。

人それぞれに関心や得意は違う。

いずれも、人手をたっぷりかける仕事。

自分も楽しみ、かつ、人にも楽しんでもらう。

有名になるのが、目的ではない、おろしろいと楽しめばいい。

 

よい作品は、世界から人を呼べるだろう。

 

次に、楽しむには、家など生活インフラのものづくり。

花壇や公園や街路樹など住環境整備。

これも、画一的な街ではおもしろくない。

人手がたくさん関わってこそ、魅力的まちづくりができる。

ここにも、多くの職人が必要。

それぞれに、個性や変化や冒険を楽しめばいい。

 

最後に、最も重要なのが、子育てと教育。

一生を通じて、学ぶのが、人の特性。

学びこそ、人生最大の楽しみ。

多様な分野で、その人だけの研究ができる。

資本やお金をかけないことが学びの特徴。

昔のこと、未来のこと、研究分野は無数にある。

其々に塾のような研究室が生まれるだろう。

 

生まれてくる子どもたちは、地域社会が育てる。

学校は、地域にある無数の塾が行う。

子どもたちは、好みに応じて、塾に行けばいい。

小学校の段階で、相対論を学ぶ生徒もある。

小学校で立派な芸術家となる子どももいる。

 

学校という施設はない。

勿論、教師もいない。

子どもたちは、幼児から自治に習熟するから、

自分たちの集団で、だいたいのことが決められる。

大人は補助するだけ。

 

地域社会で、お金や資本というものは、重要ではない。

そんなものは、なくてもやっていける。

工場などの自動化したモノづくりは、地域社会には不要。

モノを作って宣伝して売るという無駄なことはしない。

 

おろしろくて良いモノが生まれたら、

世界中から人がやってくる。

 

市役所と云っても、職員はいない。

ボランティアが仕事をしている。

福祉や医療や教育は市の仕事だけど、

ほとんどは、ボランティアが行う。

文化的な楽しみの合間に、手伝いにいく。

 

地域社会で、だいたいのものは、自給自足できる。

農業、漁業、林業や木工や建築など。

遠方や外国との取引には、通貨が必要になる。

その分の通貨は、観光客が落としてくれる。

 

文化も教育も優れた、とても魅力的なまちだから、

多くの人が訪れる。

移住してくる人も多い。

子育てには最高の場所。

子どもたちは、最高の自由と選択があり、

大人から指導されることはない。

経験と知恵に豊富な大人たちによる刺激に満ちている。

 

ここで育つ、ほとんどの子どもは

職人や研究者やアーティストになるだろう。

 

 

ゆとりのない社会

今の社会、人々の他人に対する寛容さ、

他人の欠点を受け止める包容力が

減っているのだろうか。

 

「できないこと」が致命的なデメリットになるような

冷たい社会に変わりつつあるのだろうか。

 

72年、この社会に生きてきて、

人々のあたたかさや冷たさが、そんなに変化しているとは

思わない。

 

確かに、今の時代、会社に就職しても、

先輩からゆとりをもって丁寧に指導されることは少なくなったようだ。

新入社員も即戦力として期待される。

昔のように、長期間をかけて社内教育で新人を育てるというゆとりがなくなっている。

 

上司や先輩から求められて、「できない」と言うことが難しくなりつつある。

「できない」は「やりたくない」に変わり、「それならやめる」となるのか。

 

例えば、障害を例にあげると、

昔は、障害があるから、当然「できない」が普通だった。

 

最近では、障害の範囲が広がり、

障害があっても働けるという時代になっている。

障害と健常との境目がとてもあいまいになった。

吃音などが典型。

 

軽度の吃音でも、生きづらいさは大きい場合が多い。

障害の程度と、生きづらさは、相関していない。

だから、余計に周囲にとって分からない。

合理的配慮が難しくなる。

 

社会からゆとりがなくなったのだろうか。

金銭的には、そうとうに豊かになっているにもかかわらず。

 

先日、コメントいただいた文章に、

今、最低賃金で働いても、月に14万円程度ある。

国民年金など引かれても、月に12万円。

部屋代が安ければ、何とか生活できる、とあった。

 

私は若い頃、フリーターで転職歴いっぱいだが、

最低賃金で働いたことはない。

その頃、最低賃金は常識外の世界だった。

生活保護に近いレベル。

バイトでも働ける人は、もっと稼ぐことができた。

今、最低賃金が普通になっている。

 

ゆとりの無さは、経済だけではく、

政治や学校にもあらわれている。

 

学校は、昔と比べて、特に変化がはげしい。

昔の教師は、のんびりしていた。

小学校の校庭で、大勢が見ている中で、生徒同士が殺し合っても、

大した事件にならない。(私の出身校の実話)

教師も責任を問われることもない。

いじめや暴力があっても、問題にならなかった。

陰で、一部の人たちにしわ寄せがあったのかもしれないが。

 

政治の世界も、のんびりしていた。

失言など、問題にならない。

裏でどんなことやっていても、そんなもの、という時代。

 

地域のボスが健在で、政治は動かない世界。

市長ともなれば、何もしなくても、多選が普通。

国からの財政補助が手厚くて、使い道に困るくらい。

 

今の地方政府、財政的なゆとりはない。

国からの支援は減るばかり。

しかし、国からの口出しは、昔の数倍も細かい。

一生懸命に独自性を出そうとしても、国は評価しないだろう。

地方政府の自立性は、幼稚園レベルまで低下している。

 

確かに、ゆとりのない時代になった。

 

人事管理について

高度成長からバブル崩壊まで、

日本社会のあらゆる場で、目標管理など不要だった。

目標までの道のりは、はっきりしていた。

先進諸国に追いつき、追い越す。

 

前例尊重、同じことをしていればいい。

経営者も管理職も、チャレンジは不要。

むしろ、反逆は村八分にされる。

 

東芝やシャープなどの失敗例を見ていると、

日本企業のほとんどは、管理部門が欠陥だらけではないかと感じる。

経団連の元副会長、伊藤忠商事会長の丹羽氏は本の中で、

日本の経営者の大部分が無能だと言っている。

 

日本の会社や行政組織では、

人事評価に大きな問題がある。

イデアや行動力がある個性的人材を、評価しない組織風土。

戦前の軍隊がそうであったように、

情実人事が基本の組織。

これでは、優れた人が上に立つのは難しい。

 

最近まで、全ての会社や組織は、

私情を交えた人事管理が普通であったようだ。

(先日は医学部入試での不正が話題に)。

 

1990年代に、日本の大企業は研究部門を縮小した。

日本企業は、イノベーションを諦めたようだ。

実例として、半導体がある。

日本は撤退したが、アメリカは半導体も第一線にある。

 

さすがに、情実人事を続けていたのでは、変化の時代を乗り越えられないと

人事評価のあり方が、近年少し変化しているようだ。

 

上司の主観的な判断で評価するのを改め、

目標管理や、定期的1対1のミーティング、

そして、記録を残すという、

公平性や透明性にも配慮している。

また、1対1の話し合いで、アクティブリスニングという手法も取り入れている。

 

一人の上司が部下を把握できるのは、10名くらいと言われている。

部下の個性や仕事内容が詳細に分かるのは、それくらいだろう。

これは学校でも同様だが。

 

部下の多様な個性に対応するには、

上司の人としての総合的な人間性が必要になる。

しかし、現実、適任者は稀だろう。

 

今の時代、大きく変わりつつある。

モノからソフトへ、

所有からレンタルへ、

幸せの価値観も変化している。

経済指標も変化の兆し。

 

組織が目標に向かって動くとき、

目標までの道のりが明確である課題は少ない。

途中で隘路に遭遇し、その都度、柔軟な変化が必要になる。

リーダーの先を見る能力も限られている。

むしろ、部下の方が優れている場合もある。

 

ピラミッド型の組織、上意下達の命令系では、

部下に教わっていたのでは上司のプライドが保てない。

前例尊重では、沈没するまで航海を続けるしかない。

賢い部下たちは、途中から真面目に仕事をしなくなるだろう。

 

先日のブログでチームのあり方について書いている。

https://ameblo.jp/ringokoringo2/entry-12367732563.html

 

チーム内の人事評価は、

同じチームに属する人たち同士で、互いに有効に支援し合えるかどうか、

それが重要ポイントになる。

 

お互いに、得意なところで助けあい、

チーム全体として目標達成を成し遂げられる、

対等な個人としても協力関係を作れるかどうか、それが重要になる。

上司は、チーム全員の個性にあった支援を行いながら、全体を俯瞰する。

 

個々人の知性を伸ばすだけでなく、集団として知性が伸ばせるかどうか、

そこにポイントがある。

 

ピラミッド型組織では、

上司とウマが合う人が20%。この人たちが評価される。

60%は、面従腹背

20%は、上司に嫌われる人たち。

 

これでは優秀な人材が出世するのは、まず不可能。

会社が危機に瀕しても、管理職たちは無能となる。

 

民主主義は、庶民のひとり一人を活かす仕組み。

どんな個性であれ、どこかに役立つもの。

変わった個性に対応するには、同じような変人でしかできないだろう。

変人が自由に動ける組織でなくては、

各人の個性発揮は難しいだろう。

 

(民主主義のバージョンアップを、その6)

 

つづく

教育の目的 選挙

民主主義の制度で、肝要なのは、選挙。

集団の中で、リーダーを選ぶ仕組み。

 

問題や課題の解決は、

役割分担して、組織的に対応しないと、

効果的に解決できない。

それには、

全体を俯瞰できるリーダーが必要となる。

 

人を選ぶには、

前提となる条件がいくつかある。

 

一つ、人を見る能力が養われていること。

 

これには、幼い頃から、集団で問題解決する経験を重ねて、

リーダーにふさわしい人を判断できる能力の育成が必要。

 

ある年齢(18歳)になって、突然、選挙権を与えられても、

人は使い方が分からない。当然のこと。

 

小学校の低学年から、集団の自治に習熟することが絶対条件。

中学や高校ともなれば、学校内の全ての行事(カリキュラムなど)の

自主的な自治が完成できるようになることが必要。

教師や大人の役割は、補助や助言という脇役。

 

一つ、リーダーの交代を円滑にする。

役に不適な人を選んだ場合は、速やかに交代する習慣をつくること。

リコールなどの制度のこと。

 

年齢や地位などの外部要因ではなく、

人を、信頼できるかどうか、尊敬できるかどうか、

素直に従うことができるかどうか、などの人柄で見るという習慣や態度が大切。

この態度を養うことが、教育の最大の目的。

一言で云えば、民主主義社会の主権者をつくる教育。

 

そういう見方を学生時代に身につけることができれば、

成人して、多様な人と共に働いたり、協働作業をするようになり、

グループやチームで対等な立場で協力しあうことが、できるようになる。

 

上から命じられてする、というような

奴隷のような考え方、感じ方は、

社会の中から消えていくだろう。

 

そうなって初めて、

選挙制度も民主主義も、うまくいくようになる。

 

(民主主義のバージョンアップを、その5)

 

つづく

 

 

新人の育て方

民主主義のバージョンアップを、その3

 

民主主義は、市民のひとり一人が主人公になる仕組み。

市民の中に、当然、役所や企業の職員も入っている。

 

調査によれば、

新入社員の士気は、最初の3年で大きく低下する。

https://diamond.jp/articles/-/199305?page=2

大企業や公務員にも共通らしい。

 

正規と非正規で、給与差が大きいが、

やる気がある・なしの差は、ほとんどないという。

 

4月、新しい職員が職場に配置される。

先輩や上司の仕事を見習うと、

大半が、意欲を失っていくのだろう。

それでなくても、今年の新人は、指示待ちタイプが過去以上に多いらしい。

 

行政や教職などに志願する若者は、

世の中を良くしようとする気持ちがあるはず、

特に、教育にたずさわる仕事は、

子どもたちを自立した主権者に育てるのだから、

やりがいがある。

 

民主主義の基本を教えるのが、教師の最大の任務。

社会をより良いものに変えるのが、行政の仕事。

 

新入職員に対する、最初の3年間の育て方が、

いかに大切か。

経営者や行政の首長は、分かっているのだろうか。

 

民主主義のバージョンアップ!

今、全世界で、民主主義が危うい。

特定のリーダーの専制、安倍政権もこれに近いが。

いくら賢い人でも、この時代を治めるのは不可能だろう。

 

強いリーダーが統治可能な社会とは、

身分固定、流動性ない、情報が中央に集中している社会だけ。

つまり、変化のない社会。

 

ところが、21世紀の人類社会は、

富の格差、環境やエネルギー、民族と宗教、多文化、税や経済ルール不備など、問題満載。

解決への糸口も見つからない。

 

人もモノも情報も、自由に行き来している現在。

特定の集団が支配する、固定した統治制度は、

人々の個性や可能性を活かすことができない。

インクルーシブが必須。

(健常者だけがルールを決めると、

発達障害などの多様な個性を活用できない)

 

ひとり一人の個性を活かせる社会システムは、

民主主義が全域で実現する社会。

そこでは、地域自治が基本となるだろう。

 

21世紀前半の最大のテーマは、地域自治だと思う。

地域自治は、そこに住む人々の大半が、

行政や政治にかかわっていく。

 

専門職の人は、有給の職員として、

また、多くの人が余暇を活用するボランティアとして、

福祉、医療、教育、環境、インフラ整備などの行政にかかわる仕組みだ。

 

それに向かう一歩として、

アメリカのメイナー市のイノベーションが参考になる。

 

人々をいかにして、地域自治に引き付けるか。

そのためには、

かかわることの魅力ややりがいをいかにして生み出すか。

 

あらゆる場所に、地域課題は無数にある。

現場にいる人々は、解決の手がかりを知っている。

しかし、現状、そのような声を行政がくみ上げる仕掛けがない。

 

提案や提言の制度はあるが、

言いっぱなし、聞きっぱなし、が大半。

 

私も、数年前、市の市民参画審議会で、

市民参画の実態についての審議に参加した。

立派な条例と制度はある。すでに10年以上も。

しかし、活用しようとする気がない。

担当職員も、審議会委員も。

 

何もしないという選択が一番、という結論が10年以上続く。

職員には仕事が増えないという利点。

委員も考えないで済む。

 

地域課題解決の提案があったとして、

ほとんどは、どこかの部署で、机の中で眠るだけ。

提案を出す人も、これでは次に出そうとしないだろう。

 

もし、出すことでポイントとなる仕組みがあれば違うだろう。

地域通貨でもいい。何でもいい。動機づけになればいい。

 

さらに、重要な点は、

提案は、どんな提案でも、ただちに、多くの市民が知る仕組みをつくること。

スマホのアプリを使えば、簡単にできるだろう。

 

提案に同感する人たちは情報交換して、

より改良された提案が実現に向けての行動が起こされる。

そして、課題解決が部分的に実現するとき。

より大きなポイントを付与すれば、

他の課題解決に向ける動きも、さらに活発化するだろう。

 

これら全ての過程でリアルタイムに情報が公開されるなら、

全市民が関心をもつだろう。

住んでいる地域の生々しい動きだから。

 

地域課題は無数にあり、それら全てを議会で審議するのは不可能。

近所の生活道路の補修など、役所から材料をもらえば、ただちに解決できる。

 

地域課題の解決に向けての、市民の自発的な動きが活発化すれば、

活動を通じて、地域のリーダーが育っていく。

そして、多くの市民が関心をもつようになる。

 

これこそ、民主主義実現へ、

着実な一歩となるだろう。

 

職員の仕事は、

市民たちの自発的な動きを支援すること。

そして、市民ができない所を補佐する。

(学校で生徒と教師の関係と同様)

 

議員の役目は、行政の大きな計画や財政が中心。

地域の地域課題は小規模のものが多い。

これらは、市民が中心になって解決すればいい。

 

つづく

 

 

 

 

70にして矩を超える

論語に「70にして心の欲するところに従えども矩をこえず」とある。

聖人の見本のようであるが。

私も古稀を過ぎ、

この文句の欠陥が分かるようになった。

 

まず、70になれば、体力がなくなる。

良いことも悪いこともできなくなる。

道理も理想も、到底、体現できない。

矩に従うことさえ、できない。

 

さて、人の生に、この世に、

矩・道理・道徳・規範など、あるだろうか。

何が正しくて、何が間違っているか。

すべての基準は、恣意的。

その場、その時だけに通用。

人としての普遍的な指針はないと私は思う。

 

すべてのことが許される。

まさに、ニーチェの語ったように。

 

環境、条件、場がそうなれば、

何でもありえる。

 

釈迦の五戒、モーゼの十戒

すべての戒律は虚妄。

例えば、うそをつくな。

うそと本当の違いなど、誰も分からない。

明確な線引きは不可能。

 

例えば、人は、夢と現実を区別することさえできない。

現実とは、多くの人が一緒に見ている夢かもしれない。

映画「マトリックス」はフィクションだが、

人の感じる痛みも、脳が作り出している。

統合失調症の幻覚はありありしている。

 

例えば、催眠法で、ただのエンピツを

「これは真っ赤に焼けた鉄の棒です」と被験者の腕に当てれば、

実際に火傷が生じて、痛みが起こる。と言われている。

脳がそのように認識するから。

 

先日のブログで、人と人の間の理解について書いた。

私の言う理解は、言葉による理解ではなく、

こころと心が通じ合うこと。

従って、長年の密接な関係づくりが前提となる。

もはや、言葉が不要になる間柄のこと。

 

言葉を使わなくてはいけない間柄というのは、

まだまだ、未熟な関係かもしれない。

 

人が生きる生命力は、本能や欲望とも言うが。

強すぎれば、社会の中で軋轢を起こす、

個性が強烈だと、生きるのも大変。

前人未踏の道しかない。

そこでは既成の価値は役に立たない。

 

正義も道理も真理も何もないのが人の世。

ひとり一人、自分独自の哲学を作って生きるしかない。

もちろん、他人が作ったものを借用してもいいが。

 

論語の文句、私なら、

「70にして本能に従い生きる、そしておのれの世界から矩は消えていく」と

書き直したい。

 

かなり、偉そうに書いてしまった。

少し反省。